本来無一物、無一物中無尽蔵

日々是好日

2010年3月7日日曜日

山伏になったらどうなるか?

山伏ってどんなイメージをお持ちですか?

私はやっぱり時代劇に出てくるイメージですかね。
ほら貝持ってたりして。
ぶ、うぉ、うぉ~。。ぶ、うぉ、うぉ~。。ってね。
弁慶もそんなイメージですよね。
天狗もかなぁ。。
現代にも修験道の修行として存在するそうです。
いやぁ~、知りませんでした。。

宗教とはそもそも、明治になって英語のReligion を翻訳した言葉だそうです。
なので、この語は欧米が考える唯一絶対の神を持つ一神教にこそ価値がある考え方だそうです。
日本にも宗教はありますが欧米とは違うと記事は続いていきます。

この山伏、修験道という記事を読んで私がいいなぁと思ったのは、好きな登山にはこんなメリットもあって、知らないうちにこんな効用を身体に受けていたんだーということです。
もちろん今まで登山をしていて最高の気分を頂いていますよ。山と仲間から。
みんなおかしな人ばかりだし、空気は気持ちいいし、眺めはこの世のものではないみたいし、頂上では達成感ももらえるし。。
だけど実は他にも頂いていたようです。

山を歩けばその人なりに何かがつかめる。
道中を行ずる、その過程に最も大きな意味があって、ただ目的地に着くために歩いているわけではありません。
我を解き放つ、ということです。我執があるからこそ、つらかったりめげたりする。自分の都合通りにならないと理不尽だと思う。
かといって世界は自分の思うようにはならないものだと頭で考えていても心に刻まれません。
自然の中で体を酷使して聖なるものに触れる。その体験によって、我を捨てるという意味を心に刻むことができます。
我にとらわれなければ、理不尽だという思いもなくなる。昨日をくよくよし明日を心配する。そんな自分を超えたものと対峙することで、心は本当に楽になります。
修験道の修行とは、山で自然と向き合い、己の体を使って超自然的な力、霊的な力を感得する、ということです。

自然の中に神、仏を見る。
自然を神、仏そのものだと感じておそれる。
そういう心性で、自然とどうつきあうかを問うてきたのが日本人であり、その宗教心といってもいい。
神仏をともに大切にし、「ご先祖さまに顔向けできない」や「お天道さまが見てござる」と言って、自分を超えたものに価値を見だす。そういう倫理観が昔はあった。今はすっかり自分中心になりましたが、それでも宗教は生活のあちこちに残っています。。。

読み終えて思いました。
登山が好きでよかったー。
そして、昔の人の自然との付き合い方は学ぶべきだなぁと。
「最近はすっかり自分中心になりましたが、」ってところは寂しいと感じました。
山伏にはお坊さんも神官もアマチュアもいるそうです。
昔の山伏は山に入りっぱなしでしょうが、今では修行は非日常で、非日常で得た力を日常に生かすものだそうです。
私が山伏になったらどうなるんだろう。。。
まずは形から入りましょうか。。ほら貝ってどこにあるんだろう?!
それから、あのちっちゃな帽子?いるよねぇ~。

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