本来無一物、無一物中無尽蔵

日々是好日

2010年3月14日日曜日

鉄の女は伊達じゃない

ものすごい日本人のコラムを読んで、ものすごいことが起きました。

まず、鉄の女と呼ばれたものすごい日本人についてです。
この人は小学生か中学生の頃にこんなことをしています。

雪がしんしんと降るある日のこと、将来を考え図を描き始めました。
今でいうディシジョンツリー、進路を枝分けしながら考えていったのです。
ピアノを続けて芸大へという選択肢もあるがむずかしそうだ。
では一生懸命勉強して大学へ進んでその先は。。。お嫁さんしかないのか。
そう考えると涙がぽろぽろこぼれてきました。

「鉄の女は伊達じゃない」
まず子供の頃にこんなことを考えるの??
すごい!!
しかも泣いている!
私なんて{ディシジョンツリー}を辞書で知らべてますよ。。
Decision tree 決定樹
ある意思決定がその後の場合ごとにどのような結果になるかを木の枝の形で表した図。
今でもこんな図を使ったことがありません。
でも涙は出せます。しかもぽろぽろと。。

高校生の頃はこうです。
1ヶ月のニューヨーク高校生親善大使の滞在を終えて日本に戻る途中、
ぼんやりとではありますが、日本を脱出することを考え始めました。
大学進学は能力次第で男女平等なのに、当時は女性の就職先が限られていた。
閉塞感を抱いていたのです。

「鉄の女は伊達じゃない」
まず日本代表に選ばれるところが凄いです。
そして高校生にして就職先に閉塞感を抱く。。。
私はまだパンクを聴いて、勉強から逃げるためにラグビーに専念していました。

高校3年で留学し、成績優秀のため大学進学を勧められ進学したそうです。
大学では数学の成績が良かったこともあり経済学を専攻しました。
人間の行動を理論立てて分析する。そして政策に結びつける。
これが新鮮でとりこになります。

ある学問のとりこになる、大学生ならありうるか。。
でも場所がアメリカなのが「鉄の女は伊達じゃない」

大学院に奨学金付きで合格したが、「日本人でなくなるような気がして」いったん帰国。

ここですねぇ。
一瞬「鉄の女なのに」と思いましたが、ここで日本のことを考えていることが「鉄の女は伊達じゃない」ところだと思いました。
だって私は日本のことをそんなに考えていませんから。。。

1年間は父の紹介の会社に籍をおいて、「公害と経済学」の研究と論文執筆をしていたそうです。
1年後、ボルティモアに荷物を取りに行くという口実で日本をたちました。
途中、カナダのバンクーバーで乗り換えのため1泊。
山の上のスキー場にロープウエーでのぼり、眼下に開ける太平洋を見ていたら
「何を悩んでいるのだろう。私のやりたいことは経済学だ」という答えが、すうっと見えてきました。
帰りの航空券を親に送り手紙を添えました。
「米国で大学院に進みます」
怒った父から勘当を言い渡されました。

「鉄の女は伊達じゃない」
コラムを読んで真っ先に線を引いたのがここです!
『何を悩んでいるんだろう。私のやりたいことは経済学だ』
セリフもそうですが、山の上から眼下の太平洋を見ながらというところと、
さらに、【すうっと見えてきた】というところです。ここです!
ここに私の脳が共鳴しました。

アルバイトをしながら必死に勉強し4年で博士号を取りました。
大学助教授の職を得て5年目、世界銀行の副総裁から電話が入り「うちで1年研究しないか」と。
ワシントンで働く夫との別居が解消できるなと心動かされましたが、それが人生を変える電話となろうとは想像もしませんでした。

最後のこの部分は、もう何も言うことはありません。「伊達じゃない」
もう、おどろきの連続のコラムでした!

さて、この号のコラムはこれでおしまいです。
この続きは数日間つづいて5回目ぐらいで終わり、次の人に代わっていきます。
この2週間後に事件が起こります。

夕刊で別の人がコラムに題材として挙げたのです。
この号のこの話を。
しかも、「山の上の~すうっと見えてきました」までの部分を特に注目しているー!!
「こんなことがあるもんか??」と本当に驚きました。

面白いのはここだ。
答えが風景からもたらされた。
ここは話の本筋から少し外れるところだし、いともあっさり語られているから誰も、
「どうして風景を見て答えがわかるんだ」というツッコミ入れないが、これは。。。。。

いやいやそんなことはございませんよ!
(何故かうれしい)

人間とはそういうものなのだ。
論理的な積み上げだけではどうにも解決が得られないとき、人は風景から答えを与えられる。
論理的な積み上げだけで得られる答えなど、普通サイズの人間の枠を一歩も出ない。

仏教学者もインドに行って、インドの険しい山の稜線に太陽が沈むのを見ていたら、それまでいまひとつわからなかった経典の意味がくっきり明確になったと言っていた。
つまり「啓示」ということだ。

日常べったりの思考では啓示なんて、ただ神懸かっているだけで敬遠されるのがオチかもしれない。
しかし本当に重要な問題は、風景つまり自然の力によって切り開かれる。
人間の思考というのは風景の力を得て、一段階上に行くのだと思う。

私の脳が共鳴した得体の知れない感覚を文章にして頂いた感じです。

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