本来無一物、無一物中無尽蔵

日々是好日

2009年8月2日日曜日

44冊目

善光寺法話

善光寺事務局文教課

63ページ 全28のお話

1時間+まとめ2時間

スランプの時は薄い本を読みます。

5月に初めて善光寺に行きました。
今年が御開帳の年でしたので観光の気持ちで出かけました。
今思えば、その時が縁だったのでしょう。

もう一度行きたいという強い思いがあり、なんと7月にもう一度行ってきました。
今度は祈願を生まれて(もの心がついて)初めてしてみました。
特に厄年でもないので「心願成就」を祈ってきました。
正座して祈るだけですが、普段の生活にはないことでとてもよかったです。
毎日毎日の、仕事、家で寝食、休日はちょっとお出かけ、という生活の中に一つ加えるだけで視界が広がった気がします。

実はもう一回行こうと思っています。
まだまだ善光寺でやりたいことがありまして。。

さて、偶然善光寺で購入した本が薄いので、スランプのこの時期にもってこいです。
これも縁ですかねぇ。。(善光寺にカブれています。。)
この小冊子には、善光寺に関する28の短いお話が書いてあります。
難しい言葉もありましたが、サラサラ読み進みました。
その中で面白かった3つのお話しを紹介します。

<両足尊の教え>
仏って何?
自分の心が仏です。
だから、自分を大切にして毎日毎日を努力で築いていかなければならない。

<因縁因果>
因は原因、果は結果。
原因と結果だけなら因果。
ところが、因果には「縁(ねん)」が含まれている。
縁は、原因を結果に導く働きのこと。
例えば、豆は豆の種からできる。
でも、豆の種を土の中にまいて、水を注ぎ、肥料をやって手立てを施さないと豆はできない。
この手立てを施すことが縁である。

<一目の羅(あみ)>
網を張って鳥を捕ろうとしても、網の目が一つだけでは決して鳥は捕れない。
鳥がかかるのがたった一つの網の目でも、網そのものには沢山の目がなければ網としての用が足りない。
仏教でも人それぞれに対してその方法を変えなければ目的を達成することはできない。
(ココが善光寺の特徴)
自分では念仏ほど有難いものはないと思っていても、世間には座禅が一番性に合っている人もいる。
また、お題目が何よりだと信じている人や真言を唱えることが大切だとする人もいる。
だから、自分の信仰を守りながら、他人の信仰も認め、理解し合うのが本当の仏教徒である。
仏教徒同志が他宗を攻撃したり、自分の宗旨だけが優れているように言うのは、仏教の本義を見失っている証拠で網の一目にすぎない。

このことが日常でも当てはまると思いました。

日々の生活の中で、イライラしてうまく行かない時、念仏を唱えれば仏様が助けてくれるとは思いません。でも、『一目の網』という考え方がイライラを消してくれると私は読み取りました。

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